学知の重たさ

社会に出る一歩手前、

およそ同年齢人口の半分の人の所属が、

同年齢人口の数パーセントでしかない「学術機関」に身を置くってのは、改めて考えるべきイシューであるように思う。

もちろん、このギャップにはさまざまな理由があるけれど、そのひとつに、

「学知」の重たさ

があるように思う。

 

学知の大変さ

学知を追求することが大変な理由は、ぱっと考えて3つ浮かぶ。
①時間がかかる。
②頭もいる。
③少数派だから、自分を貫く必要がある。
もち、これで全部挙げられている訳じゃないけど、けっこう大変。

だから、学知を追求していない人、ふつうに社会に出ている人を、批判するのはNG。だって、平均値は学知を選ばないことはこの理由からも、もちろん経験的にも明らかだから。

人はそれぞれ、色んな方向から社会で役割を果たしている。

たとえば、学知は、特に実践を志向する教育や福祉は、実践なくしては成立しない。言葉を砕けば、やらないことには始まらない。
だから、たとえどんな経緯であれ、自分の学知の分野に取り組んでいる人を批判したり蔑んではいけない。だって、その人たちがやってくれているから、学知の存在意義が、学知を伝えていく意義が、生まれるのだから。

 

学知の役割

では、学知は何をすればいいか。

やはりその社会的な意味は、
真理への漸近線上における、第三者にとってのショートカットにあるように思う。
具体的には、

①「見つける」「伝える」「発信する」
②わかりやすく理解してもらう
③「学知」の存在意義そのものを訴える
事だと思う。

だから、いんとん生活を送るような学知では意味がなくて、
時間を、おカネを、頭を使わせてくれているぶん、それを発信しなゃなんない。

もちろん、間違ったことを発信してはいろいろとまずい。学知っていうだけで権威性を持つから、変なことが伝わっちゃう。

だからこそ慎重である必要があるけれど、
でも、
慎重さと伝えるパワーのバランスはとらなきゃいけない。つまり、学知の世界では、慎みはある種ずっと慎まなければならないものであるから、思った以上に積極的に、伝えていく必要がある。

もちろん、押し付けにならないように。
文脈によりそって、見つめて、ちょうどよいとき、ちょうどよく。

自分の課題。

 

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