鷲田の臨床哲学に改めて脱帽。

最近読み直したセイゴーの『フラジャイル』にも響かせながら、<弱さ>のちからを潮風のように紡ぐ節々。

響いた言葉。

 

支援しなければならないひととして見ることが、「病む」ひとたちの生きづらさを余計に生みだす。ひとがそれぞれに抱え込んでいる生きづらさをいっしょに担うこと、いっしょに考えること。そのなかで、「発病するということが関係の危機を緩和する装置として働いている」ことが見えてきたと、川村さんたちは言う。無理をしたり、容量以上にがんばったら、その無理、そのがんばりを緩和するために「再発」がある、と。だから、ひとをまずそのままで百点と見ること、そこから病というかたちをとるかどうかは別として、どういう苦労を抱え込んでいるか、その意味をいっしょに考えること。その意味を束ねてゆくことが、ホモ・パティエンス(病むひと)としての人間の本質を学ぶことにつながっているのだろう。(p.156-157)

 

四苦という言葉にもあるように、老・病・死とならんで、生きるということじたいが苦労である。障害をもつことも苦労だし、若者がじぶんがここにいることにほんとうになにか意味があるのだろうかという茫漠とした想いに浸されるのも苦労。だったらその苦労を互いに隔てておくより、ひょっとしたら傷はよけい深くなるかもしれないけれど、それでも苦労を触れ合わせるなかから、生きるということの意味がおぼろげながら浮かび上がってくるのかもしれない。(p.178-179)

 

学校という、人生の最初の社会生活の場面ですでに、傷とかあきらめといった静かな痛みを深く溜め込んで、力なく佇んでいる若者たち・・・・・・。人生を、できることからではなく、できなかったことから見据えると、また違った若者像が見えてくるかもしれない。(p.184)

 

 

教育福祉はどういった方向に向かえばよいのか。

その方向性を自分なりに定めるのが僕の卒論だから、適当なことはいえないのだけれども。

 

おそらく、河合(1995)らの唱えるような臨床教育学は「はじまり」に過ぎなくて、僕たちはそういった教育の病理的な叫びから出発しながらも、最終的には田中(2012)のいうような教育臨床(哲)学、すなわち教育のありかたを「かけがえのない固有な人間存在の生き生きとした生を支え」る方向に「全体として」傾けていかなければならないのだろう。特定の病理を問題対処的に「すくう」のではなく、問題が問題として生じないような社会へ。児童福祉が学校教育と交わる理由は、そういった「選び」の文脈を卒業し、弱さでつながっていく「もたれ」としての人間の生きるありようへ導いていくことになるのだから。

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