僕自身は、「ゆったりとした社会」になればいいな、って思ってる。

ゴジラを見て感じたこと。
水爆という過ちで、人間はゴジラという、人間を超える存在を生み出した。
そして、それに戦うために、人間はまた大きな過ちを犯した。ゴジラの骨を使って、対抗戦力としてのメカゴジラを作ったのである。・・・暴走すると知らずに。

だから、科学はもっと緩慢な成長でいいと思ってるし、人間が手を出してはならない涼気があると思う。それは、人間の生を捻じ曲げる領域。
じゃぁなんでもかんでもゆったりになればいいか、っていうと、そうはいかないのが人間社会。

すべてを国家の手によって管理する社会主義国家は、人の堕落と退廃を招き、崩落に至った。僕たちはとかく「生きがい」を求める。それはなにか仰々しいものではなくて、自分にとって意味のある―それは往々にしてchallengingな―未知の領域があるからこそ、前に進もうと思える。be born・・・この生きにくい世界に落とされた命は、皮肉にも、その生きにくさがあるからこそ、前へ進もうとする。

福祉におけるアクティベーション(労働の道から外れてセーフティーネットにかかった後、再び労働に戻るよう促すこと)、教育における生涯学習は、このような「難しさ」を社会に認めることから始まっている。けして現実的に無理だとしても、たとえ理念上であれ、僕たちは「生きやすい社会」を構想することは実はあまり未来は明るくない。

むしろ、ひとりひとりがその生きにくさを乗り越えられるジャンプ台を、公平ではなく公正に用意できること・・・ジャンプしようと思える社会を眼前に押し広げていくこと・・・。教育に、福祉に求められるのは、社会善とは異なった次元に「生きがい」となりうる跳躍を個人に芽吹かせていくことではないか。もちろん、誰の畑にも芽吹ける土壌を用意することはいうまでもなく。