くやしい。

あるいは、むなしい。

 

という気持ちが先行する。

 

アカデミズムのお作法をちょっとずつ覚え始めてきたころに、アカデミズムの「無力さ」を真っ向から説くM先輩のブローは体に堪える。

でも、そのとおりでもある。

 

アカデミズムは、厳密な方法論によって手続きの客観化を目指し、理を詰めて普遍知を探究しようとする。だから、きちんとした方法論を内面化さえすれば、誰にでも普遍知に迫る可能性が開かれている。

 

一方で、社会でものをなしとげるときは、「こと」ではなく、「ひと」によってつながる。「理動」ではなく「感動」によって人を動かし、ちっぽけな自分だけではできない大きな仕事をなしとげていく。コアはただならぬ情熱だ。

 

どちらにも得意/不得意あるが、

少なくとも現在の私は、

アカデミズムに寄りすぎていた。

 

アカデミズムによって見えてくる世界は広く、深い。

しかし、アカデミズムは「真理の追究」という「社会からの抽象化」によって実世界から遊離する。客観性を保つためでもあるこの手法は、ある種の「逃げ」とも捉えることができる。アカデミズムは、それ単体の原理では人を動かすことも無ければ、社会を変えることもできない。

 

私自身が「ソーシャル」と呼んでいた生き方。

ときに、その「浅はかさ」や「汚さ」を嘆いていた生き方。

私は明らかに否定的であった。

 

でも、今日の気づきは、一方で私のアイデンティティに据えようとしていたアカデミズムの無力さである。正しくとも、理屈ではわかっていても、それはほとんどの人に届くことはない。届け、変えたいなら、それを人に伝え、ともに変えていく仲間にしていかなければならない。

 

2045年のシンギュラリティに向けての社会の進歩は、たとえどんなアカデミズムであれ私たちの達成を大幅なスピード・アップで追い抜いていく。残された私たちに必要なのは、「真理の追究」に、俗人性がおそらくずっと残る「仲間の追加」という視点を増やしていくことだ。

 

もちろん、「当事者カード」を持っているほうが強い。(そういった意味で学問は、当事者カードがなくとも論じられるという幻想を生み出す。ところが、それが幻想足りえるのは、切実さがないからだ。)自分にとって当事者であるイシューを、強く胸に刻み込んでおく必要がある。

 

「人」の時代の到来。正しさの中心に「信頼をおく実践」は、研究と並行して行われる必要があるだろう。