ここ数日のモヤモヤした気持ちに、一定のスッキリさを与えてくれたのは岩田正美先生だった。

 

岩田先生によると、研究とは、

①疑うこと

②観察すること

③考えること

の3点であると言う

 

岩田先生は、「実践・体験」と「研究」の違いを、以下のようにまとめている。

実践・体験 研究
信念に基づく行動である実践 現実の実践への基本的疑い
目標の設定

合理的な方策追求

目標への疑義

合理的な方策の相対性と

負の外部効果の指摘

今ここで見、感じ取っていることに基づく経験・実践 狭い経験を離れてより広い文脈の中に捉え直す作業

 

つまり言ってみれば、モヤモヤの原因は、

①僕自身が「研究」の態度を内面化しているがゆえ、

②社会とのかかわり(社会にいかにして影響を与え、「よい」方向へと舵とって行くのか)において求められる「実践・体験」の生の声との違いを痛感していたから。

 

①疑うこと

「実践・体験」者の、「僕は・・・と思う、僕は・・・する」という言葉に対し、「研究」者は必ずしも主語を「僕」と取らず、それについての批判的な目線を向ける。(ここでいう批判的とは、その人の意見・主張を「仮説」とみなして「論理整合性」と「経験妥当性」のチェックに自身のもちうるリソースを総動員すること。)ここには、「共感」という人-人間の感情の次元ではない、科学性を持ち込もうとする営みが顕現する。しかし、「実践・体験」者はそれは私が「何が言われるかということ(What)」を吟味しており、「私が言うということ(Who)」へのまなざしの不在に不快感を覚える。ある種普遍的な知を求める=人間のもつ固有性を乗り越えようとするからこそ当然ともいえるのであろうが、その「『わたし』という固有性の超克」こそ「実践・体験」者がもっとも違和感を覚えるものであろう。「研究」者が展開する「『わたし』という固有性の超克」は、経験した「わたし」の唯一無二性を無視して、「わたし」でないものに一般化解消していこうとする営みなのだから。

 

②観察すること

「実践・体験」者は、いったん目標を設定したら、(もちろん途中でreflectionすることもあるが)合理的な方策追求にまい進する。そこには一点の曇りも無く、目標に資するならばある意味では「どんなことも」する。

ところが、「研究」者はこれに疑義の目を向ける。「ほんとうにそれでいいの?」「それを目指すことは、必ずしも『よい』ことではないんじゃないの?」うんぬん。「実践・体験者」にとっては、これは「障害」以外の何者でもない。「目標の設定」が否定され、「合理的な方策追求」もストップをかけられる。「実践・体験」者の側からみれば実に非合理的なことである。「早く進めたい!」「グダグダいってないで、やれることをやろうよ!」「いちいちうるさい!」といった態度が容易に想像できる。

 

③考えること

「実践・経験」者は、経験をベースに話す。経験こそ、自分が立脚する営みだからである。したがって、経験によって見たこと、感じたことこそ何よりも「自分が」言うべきことであり、説得力を持つと思う。ところが、「研究」者は経験をより広い文脈の中に捉え直す作業だから、「そういう経験もあるよね、でも広く見れば」「あるいはこんな・・・」といったように、広い文脈におけるバランスを取ろうとする。これは経験の傾きを修正する作業だ。①で述べた「わたし」の否定とも通ずる。こういった態度は、「実践・経験」者から言わせれば「経験」に基づいていないであたかも自分が「経験」を超えて多くを知っているように語るから、あまりいい気分はしない。反論のしようがないからこそ、自身が上回る「経験」の不足を語ろうとする。

 

さて、以上のモヤモヤは、私が今後社会と向き合い続ける限り感じ続けるものだろう。少なくとも、社会全体からみれば「研究」者の態度はマイノリティだ。経済をまわすのが人と人の「信頼」で成り立っている以上、人と人で直接的につながれる「実践・経験」者のほうが圧倒的に多勢だ。どうやって折り合いをつけていこう。

 

スッキリさゆえ、今後の課題はよりモヤモヤとなる。皮肉にも、こういった「研究」的な分析はどんどん「わたし」という「当事者性」を奪っていくからである。

 

①僕自身が「研究」の態度を内面化しているがゆえ、

②社会とのかかわり(社会にいかにして影響を与え、「よい」方向へと舵とって行くのか)において求められる「実践・体験」の生の声との違いを痛感していたから。

のうち、

①を捨てることは、僕自身が身につけてきたものをほぼすべて捨てることになる。ナシとまで言わずとも、「わたし」の視点で言えば「もったいない」。・・・結局、「痛感」しながらも向き合っていくしかないのかもしれない。時には自身をひとりの「実践・経験」者としてdevoteしなければならないのかもしれない。

 

それでも「よい」方向へ向けたい・・・そうまで思えるような心の規矩を尖らせていく、すなわち痛め、鍛えていくことこそ、これからのぼくが自覚すべき課題だと整理したい。「あえて」「それでも」と思える自分への、戦い。