京葉学舎「民間教育機関の現状と突きつけられている課題」

http://keiyo-gakusha.com/contents/genjo-to-kadai-01.html

 

気づいたことはいくつかありますが、5つに絞ってみました。

 

社会の情勢と塾業界のまとめはおおむね的を射ている。

社会史をかなり丁寧にまとめてあります。

2-5(2)

「教育の自由化の推進および教育の多様化という名の公教育の縮小、逆から見れば公教育への民間企業の参入の容認・拡大」

という一言にかなり集約されるかと。

8.「塾を初めとする民間教育(私)産業は、教育の論理ではなく、経済ないしは産業の論理で動いている。」「公教育の分野のみを改革の対象とするのではなく、民間教育産業の分野も対象に含めないと、実りある成果は生み出せないし、また公教育の方はいろいろな法的規制をかけながら、他方は野放しで自由というのでは均衡がとれないのではないか。」

という問題意識も、今後の文科省が取り組んでいかなければならない大きな課題だと感じています。

 

 教育目的の不在からくる私事化

4(4)

「高校の教師たちが全面的に進学指導をベネッセに頼っていること」

データが(少なくとも本記事には)ないですが、私が通っていた高校もまさにこの通りでした。教育目的が揺らぐ事態に、塾業界の「口出し」の通りに学校の先生が進めている現状は確かにあります。その是非はともかく、学校の自立性が問われています。これは、5.の問題とも関連するので、いったんここで次に移ります。

 

公教育からの予期せぬ要請に基づく塾業界の思わぬ応答

5.「進学指導アドバイザー」河合塾、駿台予備学校、ベネッセコーポレーション、代々木ゼミナール四社の外部講師と明記

正直、このような塾業界の問題意識はある種受動的なのではないか、と考えています。というのもまさに、このような文言が記載されるようになった、すなわち都教委が、塾なしでは教育を成立させることができないという自覚があることです。興味深い。

 

教育福祉的課題への塾の無力さ

5.「貧困家庭層の増大」「『私』と『公』の双方から見捨てられた生徒たちがいる(ここでは教育と福祉がせめぎあっているといえる)」

6.4.

「経済的弱者とのかかわり」

「以前なら塾に通っていた成績下位層の塾通いがめっきり減ってきている。(中略)彼らはどこで救われるのだろうか。」

教育福祉を学んでいる僕が塾教育に対して抱いている最大の関心はここです。つまり、塾が私事の範疇で、お金を払わないと受けられないものである以上、それは家庭のSESが子どもの学力達成に影響を与えることを塾という存在そのものが(たとえ無意識的であれ)肯定していることを導きます。

「子どもの可能性を引き出す」教育は、可能性の種を教師に伝えることができる「言語能力」が相対的に高い子どもに注目する構造をもっています。「新しい教育実践」は現状の教育への「加法」で行われることが多いので、しばしばお金がかかります。教育はそういう意味では、家庭の経済を反映させる結果をもたらします。塾・発の教育は、そういう意味では「届きません」。よく「まずはできるところから」という理由でよい教育実践を塾・発で進めている人がいますが、それは「よい教育実践を生み出す」ことを「教育(人間形成)の平等性」に対して優先させていることを意味します。(おそらくそこまで考えてそういっている人は少ないかと思いますが・・・)

 

ここでは明記されていませんが、一方で、いわゆる「学習支援」の限界も感じています。

学校のオルタナティブを用意するという意味合いでは効果的ですが、学習支援が果たして「学習」の支援として効果的であることを示すデータを見たことがありません。つまり、学習支援は「学習の場を使った(他の目的も含む)支援」の場合が多く、(それ自体否定されるものではないかもしれませんが)地理的な限界、ボランタリーセクターの限界も踏まえると、意外と現時点の取り組みで精一杯なのではないかとも捉えられます。

 

いろいろ話が飛びましたが、結論は、「塾・発の教育は教育の平等性を否定し、世代間のSES格差を再生産している」ということです。

それをふまえても(ふまえていないかもしれませんが?)なお、塾は主張します。

 

塾の「連携」という「役割」

6.2)

「塾や学校の立場ではなく、生徒の立場から考えた場合、両者の連携はより優れた教育効果をもたらすと思われる。」

「後者(=「塾には公教育とは異なる独自の塾教育が存在しそれを追及するのだという考え」)の考えは(中略)成り立ち得ない考えに違いない。(中略)教育改革への積極的発言を通じて、塾が改革の主役となるべきではないか。」

以上のように、塾はその問題意識から「連携」といった「役割」を求めています。

それが悪いことではないかもしれませんが、上記の経済格差の再生産という副作用にはあまり自覚的になれないと思います。

 

もう一つ加えるならば、塾が公教育とイーブンになることで、“教えの公共性”と“学びの社会性”のバランスが失われるのではないか?と考えています。

“教えの公共性”と“学びの社会性”については、小玉先生の本を参照するとわかりやすく書いてあります。

塾の目的は子どもの(広義の、とつけてもいいかもしれません)学力向上なのであり、そういう意味では”子ども中心主義”の枠内から脱してはいません。

これは、子どもが将来生きる社会で、子どもがよりよく生きてほしいという願いのもとの学びを促す行為で、小玉先生の言葉を借りれば”学びの社会性”の涵養を指し示します。

一方で学校には「子どもの論理」だけでは通らないこともあります。民主主義を教えることがその代表例です。”学びの社会性”だけを重視するならば、子どもをコミュニタリアンに育てればいいわけです。しかし、コミュニタリアンは想定するコミュニティに所属する人の便益を優先し、逆に、所属しない人の便益を犠牲にします。しかし、それでは社会はまわりません。私たちは目に見えない、会ったことのない誰かを想定して、社会を生きていかなければなりません。学校は戦後そのために、戦争を引き起こしたコミュニタリアニズムにはない、デモクラシーの要素を教育の中心に据えました。これは広義の子ども中心主義からは導かれない、社会を生きてきた大人の歴史が、子どもたちに否が応でも教えていかなければいけないものです。これが、”教えの公共性”となります。

話題を塾に戻すと、塾が”私事”である以上、その教育内容に公共性が立ち入るのはかなり難しくなってきます。それは、「教育を通した(他者よりも抜きん出ることによる)人生の成功」という目的にそぐわない営みを入れ込むことになるからです。

「塾と学校の効果的な連携」と考えたときにまっさきに思い浮かんだのが、

学校:教えの公共性

塾:学びの社会性

という役割分担でした。一見スッキリしているように思えますが、これでは学校はますます求心力を失ってしまいます。”教えの公共性”はそもそも、子どもたち(ひいてはその保護者)の文脈単体には必要とされていないからです。学校にこうまでして人が集まるのは、「公教育」であるからという建前よりも、学校が(とりわけ日本においては)選抜システムをもち、学校を通して人生の成功への道を歩めるからです。「学校をなるべくコンパクトに、塾での学びを充実させて」という世論があふれ、学校改革によって教育に影響を与えていくというある種文科省所与の改革手法が機能不全に陥る未来が見えてきます。なにをもって教育を変えるか、そして教育をもってどのように社会を変えていくか。教育の社会機能が、塾の「連携」によって失われる未来に京葉学舎が自覚的であるかどうかは、本稿からははっきり見えてきません。

 

教育「業界」と呼ばれる塾分野は、今年の日本教育学会でも”ラウンドテーブル”として設けられるほどに、「学校」をメインの現場とする教育学が取り組んでこなかった問題です。市場化を単に非難するのではなく、塾そのものへの仔細な検討が、皮肉にも、学校教育の現実に資す時代がやってきました。知人友人にも多くの実践者がいますが、どうか、盲目にならないでほしいと思っています。