博士論文を書ききるということは、その道の専門家になるということで、
まだ明らかにされていない知を、一歩前に進めたことを認めてもらうことでもある。
と同時に、研究者としての太鼓判を押され、研究の職を得ていく道が開かれる。
自分は博士論文はおろか、まだ修士論文すら執筆中の身だけれども、
研究の先になにがあるんだろう、と疑問が絶えない。
個人名を挙げてさげすむつもりはまったくないので、名前を伏せて実例を挙げると、
①「こんな実践がいいよ!これで効果出るよ!これ勉強した方がいいよ!」と言う人。自分の意見に自信をお持ちなのはいいけれど、その実践でこぼれてしまう・逆機能を与えていることを鑑みた?
②「これは効果あるの?逆効果じゃない?・・・正解?いや、そんなの簡単に出ないって。」と言う人。学問に忠実なのはいいけれど、それで社会のなにが変わっているんだろうって。僕は真理(妥当な知見)に近づくことへの関心は高いけど、それが社会をよりよい方向に動かしていく力になるものではなかったら、ただの趣味の範囲内なのではないかなぁとさえ思ってしまう。
③「なにがよいかではない、そんなこと言っていたらいつまで経っても社会は変えられない。自分が行動し、どう変わったか、だけだ。」と言う人。行動派。でも、視野が狭窄。ときに踏み間違う。
どの人も自分よりは尖っていて、それぞれの役割が相補的に機能しているのかもしれない。でも、どれも何かが足りなくて、自分はこの中からどれかを選べない。
でも、少なくともアカデミズムの世界に身を置くのならば、多分態度としては②に一番近くて、でも、それで何が変わるんだろうって、っていう疑問にはやっぱり答えを用意できない。
というか、
45億年の地球の歴史×70億人 分の1 の自分は、いったい、なんだかよくわからない”シャカイ”なるものになにができるんだろう。どんな影響を与えられるんだろう。そもそも、与える影響は誰かの幸せをもたらすのか、はたまた奪ってしまうかもしれない。また、こんな大きなことを考えている傍らで、側で大切なものを失ってしまうかもしれない・・・。
偉大な先人たちの積み上げをまだ自分は追い切れないのに、先人たちがクリアできなかった課題を解決できるはずがない。
あ、そもそも、解決した先には何が待っているんだろうか。
希望か、それとも、飽和か。なんとなく後者である気がしてならない。
・・・あまりにもマイナス思考で考え過ぎている。
プラスに捉えれば、「1人以上」の価値が発揮できればそれでいいじゃないか、と。
「一人前」になるのだって大変なのだから、「二人前」できれば十分じゃないか、と。
そもそもそんな大きなことはできないのだから、手の届く範囲を限定しないようにしつつも、手の届く範囲で自分ができることを行っていけばよい、と。そう思えばいいだけなのかもしれないんだけれども、かんたんに納得はできない。自分が手の届かない人たちを、無意識とはいえ、捨て去っている。もちろん、全ての人を平等に、なんてのは幻想に過ぎないんだとしたら、そもそもこういう発想そのものが「ないものねだり」なのかもしれないが。
タイトルに戻ろう。
研究者はなにをみているか。
拍手・握手・挙手の枠組みをいつまでもキープしながら、
全体をみて拍手、
考え方を定めて握手、
自分が貫いて価値を発揮できるものを作り上げて挙手
ができるようになろう。
全体を見る視野の広さ、これは常に、常に拡げていくしかない。
定める考え方は、いろんな人の考えを自分というフィルターに通しながら、重厚な考えの軸を育てていこう。
そして自分が価値を発揮できる挙手は、まさに今、他に比べてたった今、自分が最も取り組むべき課題なのだろう。
というところで、辛うじて自分を落ち着けてみる。思考のバグ。
3つ全部をゲットしよう。