研究や勉強以外で、久しぶりに自分で文章を書こうと思った。

 

目白駅付近で、ボーイスカウトの服装に身を包んだ子供たちが、歩道の両側で募金活動をしている。

大人も何人かいる。大きな声を張り上げて、募金を募っている。

僕はその声を耳に入れながらも、颯爽と自転車で通り過ぎた。

しかし、その声と、なにか悶々とするものが胸に溜まった。

 

かつては僕も募金に積極的だった。

小学校で度々あった、赤い羽根募金。

10円とかその単位でいいので、募金をする。

その代わりに赤い羽根がもらえる。

小学生の頃の僕はなんのことだかよくわからないままに、連絡帳に書かれた「赤い羽根募金」を母に見せて、何十円かを袋につめて学校に持っていっていた。

学校では、各クラスいくら、学校全体でいくら貯まったかが報告された。

小学校6年生になる頃には「歳末助け合い募金」を市役所まで持っていったこともあった。

みんなが学校で勉強している間に、生徒会のメンバーだけが学校を抜け出て市役所までいくのがどこか誇らしくもあり、嬉しかった。

・・・これが、僕の「募金」について思い起こされる原体験のすべてだ。悲しきかな、募金の先にある人々の暮らしや窮状は記憶に残っていない。

 

大学になって上京してから、御茶ノ水駅付近で犬・猫の殺処分についての募金活動を求める青年らを多く見かけた。

週末のたびに大きな声を出して、通り過ぎる人々の”上方”に声をかけている。(”通り過ぎる人々”そのものというより、彼らのかすれる声は常に空を切っていた)

それらを仲間内に話しながら、「時給1000円でバイトしたほうが募金よりも効率がよいのでは?」という意見に接することとなった。まったくである。

もちろん、たまたまうん千円を募金してくださる人もいるだろうが、外れ値を期待するのもナンセンスであろう。

 

それでも募金が続くのはなぜか。それは、募金が複合的な事情を持っているからではないか、という点以外に合理的な理由を見つけられなかった。

つまり、募金本来の目的である「お金を募る」のみではなく、お金を集めるプロセスを通じて若者が寄付の難しさ・大切さを学んだり、街頭で関心がない人に訴えかけて関心を惹起する、など。

また、もう少し功利的な事情もあるだろう。対面で話しかけられると人は弱い、特に子供がお願いすると財布の紐がゆるむ、など。

そういう複合的な事情が合わさって、募金活動なるものが続いているのでは、と考える。

 

ところが、僕が目白を自転車で通ったときに抱いた疑問は、

「この子どもたちは本当に募金活動をしたいのか?」

ということである。大人にさせられているだけではないか?ということ。

Googlingしたら、確かに大人による「ボランティア教育」目的で子供たちを街頭に立たせているという意見があった。やはり。大人の事情が子どもの動機を奪っている。

また、「子どもたちは年齢なりに理解していますよ」という大人もいる。しかし、若者以外が募金活動をしている姿をあまり見かけない。経験則の域に収まらざるを得ないが、子どものうちだからできる「偽善」と化しているのではないかという懸念が止まない。

 

ぼく自身は、子どもの募金活動自体を否定したくない。寄付文化が根付いていない日本において、募金活動を通じて、資本主義社会に対抗する「お金の取り扱い方」を学んでいければいいと思うし、そういう生き方が育っていけばいいと思う。

でも、大人によって強制的にさせられる募金活動は、むしろ「人に評価されるならやるけど・・・」という具合でボランティアの本質を堕してしまう。現状の子どもの街頭募金活動がそのように機能しているように思えてならない。

 

 

今ではメディアがある。クラウドファンディングを高校生が成功させた例も珍しくない。

また、SNS上の広報手段を駆使すれば、本当に社会に訴えるべきことなら支持が得られる。なにも大きな、キンキンな声を休日に出さなくとも・・・それを「子どもらしい」として肯定せずとも、別の道が開かれている。

どうか、街頭募金を偽善へと堕すことなく、子どもの生涯に影響を残す共助の生き方につながるものであってほしいと願う。

僕に何ができるだろうか。

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