久しぶりの更新になってしまった。この経緯についてもあとでまとめたい。

 

団体行動への参加

ある勉強会のフィールドワークで、団体行動に参加した。

団体行動とは、僕らが学校で、「労働三権」として習ったやつだ。憲法28条で保障されている。

ある企業が不当労働行為に対する不誠実な対応をとっており、それに対して団体行動を行う、というものだ。

行ったのは主に以下の3つ。

①本社前行動(30分程度):本社の前をプラカードやシュブレヒコールで包囲しつつ、当事者・担当者など数名で本社に申し入れを行う。

②街頭宣伝(30分程度):街頭に立ち、メガホンを使って街頭で宣伝するとともに、ビラを撒く。

③報告集会・懇親会(2時間程度):近くの会議室で、当事者、ゲストとしての大学教員や他の当事者、学生の声を共有する。その後、お酒を交えた懇親会を行う。

初めての経験であったのは、自分の中でいろんな”箍”が締められていたからだった。その箍を緩めたがゆえに、見えてきた・感じたものもあった。せっかくの機会だから、行った3つの行動に合わせてここで文章にまとめてみる。

※併せて、この文章はこの活動に携わっている皆さんはもちろん、他の誰かやその行動を否定するものではなく、あくまでも私個人の、執筆現在の所感であることを念のため付しておく。

 

①本社前行動

集合は、会社近くの公園であった。内密に、ゲリラ的(?)に集まり、スケジュールや動き方の簡単な確認を行った。

集まっている人の内訳は、当事者数名に加え、この団体行動を組織している当事者とは別にいる団体のメンバー、学生、そして有識者(大学教員など)数名であった。

会社への道中、申し入れると共に行くなら、

「もし申し入れを企業がすんなりと受け入れたら、集まっている人々は何もやれなくなってしまうのではないか?」

と問うと、

「多くの場合、企業はまともに取り合ってくれない。会社の前で目立つ行動によって周囲の目をひきつけることで、個人の小さなことをもみ消しにくくするとともに、企業と対等に交渉ができるようにする」

とのことだった。確かに、自分自身も、これまで一人の「個人」として交渉し、色んなところで”不条理”を体感してきた。もしこの声が大きいものであれば変わるだろうということを、特に官僚組織化しつつある大学でよく感じるし、見聞きもする。その意味では必要だし、有効なことなのかもしれない。現に、同じビルの他の階や周辺のビルの会社員は、様子を見に窓の外を覗き込んだり、ベランダで見ていたりした。一方で、通行人(運送会社の人が多かった様子も受けたが、通りすがりの人、あるいは下校途中の小学生もいた。)はそそくさと通り過ぎる人が多かった。結局、「責任者不在」とのことで明確な回答がもらえなかったらしく、30分程度のシュプレヒコール(集団で声を揃えてスローガンなどを叫ぶ行動)は続いた。

 

 

②街頭宣伝

その後、もう少し大通りに移動し、街頭宣伝をしつつ、他のメンバーはチラシを撒いた。有識者や団体の関係者はもちろん、当事者もメガホンをとって街の喧騒に訴えかけた。私は通りを挟んだところでチラシを配った。乏しい経験の範囲内だが、チラシを配る難しさ、そしてそれが直接的に与える影響、すなわちチラシを受け取ってくれた・読んでくれたわずかな人の、以降の行動や意見形成への貢献が、かなり小さいことはなんとなく知っていた。それでもチラシを配る意味を尋ねると、

「企業からすれば、自社の悪いイメージが社会に流布することは避けたいから、本気で対応せざるを得なくなる。もしメディアがこの宣伝の様子を取り上げれば、問題は一個人対企業の問題では済まなくなる」

とのことだった。つまり、「大事(おおごと)にする」ことが目的である、と。ある程度は納得がいった。

私がチラシを配ったところは、電話をかけながら歩くビジネスマンらしき人、自転車に乗って颯爽と道を走る人、友人と街に繰り出す外国人、そしてホームレス。様々な文脈でこの道を通る人々に、「●●の実情を知ってください」と声をかけながらチラシを配った。2月の寒空の下の街頭宣伝は、30分ほど過ぎたところで終了した。

 

 

③報告集会・懇親会

その後近くの集会場に移動し、テーブルをぐるっと囲んで報告集会を行った。報告集会では、集まった人々のうち数人の所感やコメントが共有された。そしてその後テーブルが組みなおされ、お酒を交えての懇親会へと移った。

 

何度かマイクをもった当事者の発言では、「現状はおかしい」「ありがたい」「おかげで」といった言葉が繰り返された。その達成が語られるたびに、会場からは歓喜の声や拍手が沸いた。

一方で有識者らの発言からは、「これは明らかにおかしい」「史上稀に見る新しい出来事」といった、「正しさ」との乖離とそれを縮める努力・達成を評価する発言がたびたび聞こえた。

学生からは「勉強になった」「許せない」「憤りを覚える」といった一人称の語りが多く聞こえた。

団体行動を組織した団体のメンバーは、後に行われる選挙(?)の宣伝も兼ねて、「労働者、闘おう」といった鼓舞的な発言が多かった。

 

このように、聞こえてくる発言は様々なものであったが、団体のメンバーの話によると、とかく大変だし重くなりがちな団体行動を、懇親会を設けるなどして楽しく続けていくといった工夫をしているとのことだった。

 

以上が、僕が初めて経験した団体行動の一部始終である。思いを致すことは絶えないが、その思いは恐らくここに集う人々のそれと幾分かずれていたようにも思う。

 

その思いをまとめる上でまず導入したい視点は、一連の動きを「闘い」として考えるということだ。

(ちなみに、「戦い」は選挙や戦争で使うらしく、「闘い」は社会運動や労働争議で使うそう。)

「闘い」というのが適切な言葉かはわからないが、この視点で自分の感じたことを整理してみたい。問いたいのは、「闘い」の意味である。

 

”誰の(who)”闘いか

まず、この闘いが”誰の”ものだったか、ということである。もちろん、当事者の戦いであろう。団体は、(懇親会で団体のメンバーが少し話したように、)あくまでも当事者が自分たちで立ち上がれるように支援する立場である。ところが、また別のメンバーは、この団体行動に「同業種の、他の企業の人が来ていない」ことを問題視していた。つまり、”当事者”の範囲は、今回立ち向かった企業内にとどまり、業界には広がっていなかったと見ることができた。団体のメンバーはそれを問題視し、自身の役員当選の暁の課題としたいと言っていたが、それは可能となるのだろうか。言い換えれば、個人対企業の間で展開される「私の闘い」を、業界で働く労働者対各企業という「私たちの闘い」に昇華していくことはできるのか、ということである。

もちろん海外の事例、労働法の想定する社会などを引き合いに出せばそれは「実現されるべき構造」となる。ところが、日本は「企業別組合」という労働組合が限りなく機能しにくい構造にあるため、その理想との隔たりは大きい。

私が気づいたこと、いや、箍を外して動いてみて改めて感じたことは、その隔たりを埋めるために行われる闘いに参加する人と参加しない人の距離である。これはずいぶんと大きいように感じる。もっと言うと、中の”人”がずいぶんと違うようにも感じる。「正しいこと・理想のこと」ならば、第三者である会社の近くの人々もシュプレヒコールに加わってもおかしくない。また、通りすがりの人々はもっとチラシを受け取ってくれるはずである。そして何よりも、同業者がもっと来ているだろう。ところが、現実は違った。理想との間に横たわっている何かを表現するならば、”温度感”になるのだろうか。

 

「大変でしょうね、ハイハイ。がんばってね。」

というのはまだ良心的だろう。

 

「知らん。」

というのがマジョリティかもしれない。

 

「運動とかそういうの・・・怖いんだよね。」

という人もけっこう聞く。

 

闘いは、多くの場合、見向かれず、避けられている。

 

ちょっと視点を変えてみよう。では逆に、運動を組織する団体の人々はどうして闘うのだろうか。つまり、「わたしと企業の闘い」に、どうして力添えできるのだろうか。

「これはおかしいことだからだ」という正論はわかっている。「日本が倒れてしまう」という、後々に「私たち」となる不利益だってみんなわかっている。でも、なぜこんなにも自身を投げ打って闘うことができるのか。

それを考えるヒントとなったのが、「闘いを楽しく続ける」という視点だった。確かに、懇親会で酒を共にするのは「楽しい」。そして、闘いに同伴し、困難な戦局を勝ち抜いていく先輩を見て、追いつこうとする学生はきっと「楽しい」。なるほど、「楽しい」から、闘い続けるんだ。団体のメンバーは、闘いで得られるものに加えて別の楽しさを感じているから、闘い続けるんだ。つまり、「労働条件の改善」や「ニホンのよりよい労使関係」といったミッションに加えて、闘う楽しさ・・・ワクワク感や自己実現、より短期的な快楽といった戦利品を得られるから、闘い続けるんだ。

 

逆を言えば、同業者が闘い続けないのは「楽しくない」からなのかもしれない。自分の(古巣の)労働環境がよくなるのは「楽しい」。でも、同業者の労働環境がどうなろうが、その闘いに参画するのは大変で「楽しくない」から、過去の闘いに参加した同業者は戻ってこない。闘いの意味は、団体のメンバーと、同業者とで異なるのかもしれない。

 

 

是非をどうこう言いたいわけではない。むしろ海外の労働組合がどうしてここまで続いているのかを知りたい。それを知ることは、日本の労使関係をよりよく転換させていくことにつながるはずだから。当たり前を相対化するオルタナティブにじっくりと目を向けることは、色んな気づきを与えてくれるはず。

また、両者の理由を「楽しい・楽しくない」だけで説明をつけてしまうのも不十分だと思う。これだと、「『楽しさ』だけが運動ではない」という声がとんできそうだ。うん、そうだと思う。闘いは、ミッションが先にあるはずである。

 

ただ、闘いって、もっと辛く苦しいものではないか。・・・直観的に、そう思う。

僕自身の経験論を持ち出してみる。闘いは、いつも誰かが傷ついていた。もちろん、得られるものもあったろう。しかし、それは最後の手段だ。つまり、誰かを傷つける闘いをしてまで得たい何かがあるのか、あるいは、すでに自分が傷つけられているから、相手に対する傷が正当化できるのか。

人類の歴史は闘いの歴史として整理されてきた節もあるほどに、闘いは私たち人間に深く結びついている。誰もがみんな、いつも何かと闘(戦)っている。それは商談かもしれないし、家族の窮状かもしれないし、受験かもしれないし、過去の/未来の自分かもしれない。でもいずれにしろ、闘いって、もっと辛く苦しいものではないか。繰り返しになるが、そう思う。失うものも多くある。”駆り立てる”何かがなければ立ち上がれないのだから、自分に火をつけてせき立てる。そうやったやむをえない戦いを、楽しくするってどういうことなんだろう。

 

一時期、慰安婦問題が話題に上がった。戦場での安らぎ-酒宴、家族との文通など-は、戦争を扱った映画でもよく取り上げられる。いずれも、戦いの辛さ・苦しさを和らげた。前者は強制的に、後者はそうではなく。戦いにおける楽しさは、本来的に絆創膏だ。戦いにおける出血-辛さ・苦しさ-を、一時的に止めておくものだ。それが、楽しさがゆえに続いてしまうのは、どうなんだろうか。手段が目的化しつつあるとも言えなくはないのではないか。

 

 

本当はもっと文章を練るべきだし、続けたいが、心の灯が消えそうだ。

文章とは、ほとばしる心のパトスの火の粉であるのかもしれない。

いったんここで筆をおいてみる。もう少し熟成させたい。

 

あとがき

団体行動に参加したある先生は、長時間労働とパワハラによって、社員が自分で思考することができなくなることを「虐待型管理」と呼んでいた。

私自身が文章を書こうと思えなくなっていたのは、似たような境遇にあったからなのかもしれない。

未熟ながらも、自分のあたまを痺れさせないようにしたい。

「自律」するという言葉を、今一度自分に課したい。

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