普段と違うコミュニティに属し、普段と違う環境に身を置くことは、普段自分が何一つ気にせず新退化している“何か”を自覚させてくれる。ここで言語化して整理しておきたい。どれもきっと浅い考察に止まるが、この瞬間に言葉にしておくことを大切にしたい。

 

第一に、マイノリティの問題。

自身が依って立つ学問を究めていく場に身を置くものは、議論を先鋭化しやすくするために一定の同質性が担保された場所を選択する。ゼミであったり、研究会であったり、学会であったり。うちの研究科は単一名称「教育学研究科」を語れど、そういう意味では異質ないくつもの学問が集まっている。今回のある機会で、3:1で私の依って立つ学問がマイノリティとなった。

どんなことが起きたか。コンテンツの多くがマジョリティーを対象としたものとなる。“集団”としての反応はマジョリティーによって形成されるから、コンテンツは歓迎をもって加速する。

それ自体は悪いとは思わない。世の中のほとんどはマジョリティーに標準化されている。もちろん、マイノリティの立場を汲む重要性はいまさら指摘する新しさは全くない。しかし、ここで私がどのようにreactしたかを書き留めておきたいのである。一人称の自己覚知を。

 

①開き直る。「そういうもんだろ」「自分は仕方ない」って言い聞かせて、自分だけで、しらけようとする。

②外れたくなる。「ハイハイ、ドーゾ」ってなって、一線の距離を置きたくなる。外れたところから、その場を眺めたくなる。中にいると、居心地が悪いから。

③悔しくなる。別に悔しんだって意味はなく、「元々違うんだからしょうがないジャン、自分には自分のイイところがあるでしょ」と割り切ってしまえばいいのだけど。“ないものねだり”なのだろうか。「どうして自分はそれができないんだろう」と、うらやましい気持ちも芽生えてくる。きっとそれは立場が逆転したら同じことを思われるのかもしれない。でも、自分“だけ”がこう感じるのは、きっと、表現の場が偏っているからだろう。

④・・・と思いながらも、ちょっと“乗る”。こんなにヒクツな態度をとりながらも、実はどこかで、交じりたいという思いもある。だから、たまに交じる。ほどよく「一緒」の感覚を感じようとする。でも、近づき続けると①~③の感情が沸きあがって疲れちゃうから、すぐ離れる。

 

こんな風に、実にメンドクサイ心理が自分の中に渦巻いた。いつもきっと、逆の側にいるから気づかない。けど、マイノリティってこんなにメンドクサイ、けどしんどい位置に立たされるんだ、ということを肝に銘じておこう。いつでもこの文章に戻ってこれるようにしよう。

 

 

第二に、幸せの問題。

ひょんなことから、あるアポイントメントが失敗。100%自分のミス。ほんとうに“ひょんな”こと。だからそんな引きずる必要はないのかもしれない。実際、僕以外誰も傷つけていない。だから、これはすべて僕の中で完結すること。でも、だからだろうか、それが無くなったときにふっと、「僕は誰のためにやっているのだろうか」「僕はなんのためにやっているのだろうか」と自問自答してしまう。換言すれば、「逃げ出したい」と思ってしまったのだ。

誰のためにやっているのだろうか。今、すぐひとまずの声が出せそうなのは、顔が見えない誰かのために自分が頑張るモチベーションが下がる(かもしれない)、ということだ。自分は今、普段いる場所からかなり離れたところにいる。今、ここで、自分が周りの人とつながっているという感覚を感じない。“互助”という概念を持ち出して、「一方向では成立しない」と言い寄せて納得しようとしている自分もいる。一方で、普段の自分は、周囲への貢献を幸せに感じる。もちろん、アドラーに言わせればそれは他者依存的な幸せで、他者によって振り回される幸せなのだろう。しかし、そうやって幸せを獲得してきた自分がいる・・・。結局、これは僕自身が“幸せ”と十分に向き合えていないから巻き起こる疑念なのだろう。

なんのためにやっているのだろうか。これは、違う文脈だけど次の点に関連するから、まとめて書き留めたい。

 

第三に、ミッション性の問題。

なんのために学問するのか。取り急ぎのもっと身近な題目を据えるなら、「なぜ、修士課程で研究をするのか」。・・・察するに、周りの人たちの答えと自分のそれの乖離に、何とも言えない「うあーーー」を感じてしまった。第一のマジョリティー/マイノリティの問題とも絡んでくるが、僕が依って立つ学問の社会的課題は、重すぎる。それに対して、マジョリティーのそれはそれほど感じられなかった。もちろん、彼ら・彼女らに言わせればそんなことないのかもしれない。学問に貴賎はそぐわないのかもしれない。・・・それにしろ、ある人が言った言葉、

“どれだけ賢いかではなく、どれだけそれが好きか”

という言葉は、おそらく期待された意味とは別の文脈で、心に刺さる。

冒頭の問い・「なんのために」。そこに、自分の「好き」を一番に持ち出そうとしない自分がいる。・・・いや、自分が「好き」だから、今この学問に向き合っているのかもしれない。でも、どこかで、それよりも何か社会のウンヌンがあるんじゃないの?って言いたげな自分もいる。あぁ、きっとこれは、自分が正論でいないと不安になってしまうクセの問題なのかもしれないな。ミッションは、他者のためにあるのか、自分のためにあるのか。きっと、両方を自分の生き方に統合していくのがいいんだと思う。でも、まだそれができていない。・・・僕の好きなことって、なんだろうか。次にもう少し検討したい。

 

第四に、偏愛の問題。

まどろっこしい議論を避けて結論を述べれば、「互いの偏愛を尊重しあえる社会」なのだと思う。

「愛」は述べきれないくらいに大きい話題だけど、ひとつ輪郭をなぞれば、「愛」は理屈では曲がらないと思う。だから、正論を振りかざして矯正することはできないし、自分がそれをされたら嫌だな、って思う。ここで、「愛」の違う他者が出会ったとき、互いに居心地が悪い空間が生まれるときがある、という問題を考える。離れるべきだろうか。歩み寄り、対話するべきだろうか。そんなのはケースバイケースであって、原理原則は(誰かが言っていたのとちょっと言葉が違うけど)「互いの偏愛を尊重しあえる社会」なのだろうって。

さて、ここで自分ごとに還してみよう。自分が「愛」するものってなんだろうか。誰かを持ち出すことなく、「好き」って言えるものってなんだろうか。個性/没個性といった表象の議論ではなく、ココロネから「好き」って言えるもの。それが、22歳の僕は、まだうまく言語化できていない。

 

 

以上。実にくすぶっている。「好き」ってなんだろう。「好き」って、どんな輪郭だろう。

 

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