もやもや。

 

「早稲田まで行ったんだから」という発言に、様々なことを感じる。必ずしも僕のことだけではなく。

人は、「もったいない」という。せっかく早稲田まで行ったんだから、もっといい仕事があるじゃない、何もそんな苦労をしなくていいじゃない、と。

 

確かに、その論理は一理ある。若い時に十分苦労したんだから、何も歳いってからわざわざ苦労しなくていいじゃない、そんな苦労を避けられるだけの努力を、あなたは既に十分してるじゃない、と。ふむ。

 

でも一方で、この言葉が親から語られるとき、もったいないのは、きっと、「親にとって」。つまり、私たちが塾代、受験代、百万単位で出したんだから、せめて就職はいいところに就職して、安心させてくれ、と。ふむ。

 

先生にこれを相談したら、「一元的な価値観に囚われている」と話された。つまり、それは経済的安定だけが至上命題の幸福感に囚われている、と。ふむ。

 

・・・ここで疑問。でも、経済的に厳しかったから、経済的安定を親は求めるのであって、子どもがもしその道を歩もうとしていないとき、「自分たちと同じような苦労をするのではないか」と案じるのは至って自然だ。そして、これはもはや幸福感どうこうというより、行動の自由度の議論になってくる。

 

「ちいさいひと」の2巻、教育虐待編の中で出てきた親のセリフ。

「教育熱心であることが犯罪ですか?」

「じゃぁこの子の将来、だれが保障してくれるんですか!?」

などなど。

親が教育のために、お金をため、塾に通わせ、勉強を強いないと、将来子どもが苦しんでしまう。・・・今できることなら、しておきたい。これが、親の本音だろう。学歴主義社会だろうが、教育費格差だろうが、そんなの関係ない。少なくとも、「うちの子」だけは、将来苦しんでほしくない。そんな親の必死の思いが、子どもを教育・・・いや、勉強に走らせる。

 

「じゃぁこの子の将来、だれが保障してくれるんですか!?」

のくだりを、堂々と返せる先生はいないだろう。だって、先生がそんなの保障できるわけがない。産業構造は変わるし、その子の将来がどうなるかもわかんないし。だから、塾に行く子ども、いや、塾に行かせる親を止めることはできない。どんなに学校で“いい”ことを学ばせても、その子の将来の保障にならないなら、塾に行かせたがることに変わりはない。

 

以上が、問題の全体像。

では、どう考察できるか。

 

まず、親であっても、学校であっても、誰もその人の将来を保障してあげることはできない。絶対にできない。

じゃぁ結局個人主義かいな、自己責任かいな、って言われると、それも違う気がする。

その人の行動は規定しない、縛らない。でも、共にいることで影響を与えることはできる。もちろん、良くも悪くもだけど。

それから「保障」はできないにしろ、一緒に悩むことはできる。だから、悩みを避ける、除けることを事前に企図するのではなく、一緒に向き合っていくこと。そのぐらいはできるのかな。

 

・・・でも、そこをなんとか、ちょっとでも、確実性を得たいというのが親心。

・・・でも一方で、自分の人生は他ならぬ自分の人生なのだから、自分で歩みたいと思うのが、子どもの心。

これが世に言われる“自立”。

 

子どもが生まれてオギャーのタイミングで、「私の人生は私の人生なのですフフッ」っと言うはずがない。その可能性はほぼゼロ。

でも、親が最初から「この子の人生はこの子のなの。だから私は、むやみやたらに手を出さないほうがいいの。」なんて思うと、きっと子どもは育てられない。2時間置きの授乳は、並みの精神ではできない。愛しい、我が子よ、との思いでやっとできるものだと思う。だから、親の心持ちはグラデーションで、変化を求められるものなんだろうなぁ。

 

 

以上、まとまらないけど、一瞬の逡巡をひとまず文章にまとめておきたかったので、書き残しました。

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