旧知の友人らと会う。artificialな機会であるというのに、その後まで付き合ってくれることに本当に感謝する。

 

「場づくり」が得意なほうではない。内容ではなく、接し方や調子の面で、構成員の中庸にヒットさせることができない。・・・学部生のころはまだましなほうではあったが、こと最近、その傾向は強くなっている。凝り固まっているわけではないが、以前よりも自分なるものを”上手”に扱えなくなってきたように感じる。”上手”なありようと距離ができてしまったのだろうか。

 

それでも、旧知の友人らは、僕自身の中身を上手に引き出してくれる。真摯に、また笑かしながら。ありがたい。本当にありがたい。心のマッサージであるようにも感じる。

 

同期のみんなは、たいてい社会人2年目を迎えている。”新人”を通り越し、研修を終えて来る新たな”新人”を迎える時期でもある。1年目の大変だった話が酒肴となる。成長曲線は急峻だったに違いない。では自分はどうだろうか。

あれだけ意識していた1年目でも、振り返ると、甘かったとしか思えない。確実に、成長曲線は緩慢であった。学部生の”延長線上”であった。・・・意識はあった。しかし、それを実現するだけの具体的方策を自身に課すのが不十分であった。痛切に感じる、爪の甘いことを。

 

ボーナスの話も出る。みんなが、それぞれに、社会人並みのお金を稼いでいる。自分はまだ何もない。アルバイト先の困難にやっと向き合っている、そんなところだ。ちっぽけに感じてしまう。彼らに比べてちっぽけさを感じる。

 

僕自身は何を社会に提供できるだろうか。そのボーダーラインが、この職業はずいぶんと高い。妥協することもできるだろう。でも、”誇れる仕事”をするためには、そのハードルは限りなく高くに設定する必要がある。

 

学問をしっかりと学ぶことは、そのハードルの高さを真に実感することであるようにも思う。たいていの取り組みは、部分的で、焼け石に水である。カミサマの視点に立てば、そうなる。

 

ハードルをどこらへんに設定するか。それはすなわち、研究者として自分が誰の、何を、どの程度担うかという問題を考えることになる。